はじめに
2006年
2007年
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はじめに─知多四国八十八ヶ所霊場とは●概要全長約200kmとも250kmともいわれる。福岡の篠栗四国霊場八十八ヶ所霊場、小豆島の島四国八十八ヶ所霊場とならぶ、「三大四国霊場」とされる。 八十八の霊場と、十の番外霊場の九十八ヵ寺で構成される。四国八十八所での高野山にあたるのは、名古屋市昭和区にある八事山興正寺(やごとさん・こうしょうじ)。高野山真言宗別格本山ということで、尾張高野山と呼ばれるそうだ。 ただ八十八番円通寺からは約15km、それも街中のルートになるので、歩きでのお礼参りは全行程の中で一番大変かもしれない。 ●弘法大師と知多弘法大師と知多との関わりは、弘仁5年(814年)、弘法大師41才の時とされる。諸国行脚の途中、三河から船に乗り、今の南知多町大井聖崎に上陸。近くの医王寺(現在の知多四国30番霊場)と岩屋寺(同43番霊場)に逗留し、護摩修法などをしたという。 弘法大師の年譜を見ると、その前年弘仁4年(813年)には、生地に造営していた善通寺の伽藍が完成。また同じ年、理趣釈経の借経をめぐり、最澄との関係が気まずくなり始めている。弘仁7年(816年)には、道場建立のため、朝廷に高野山の下賜を求め、すぐに認可された。(金剛峯寺 弘法大師略年譜より) この間の事跡は書かれていないので、勝手に解釈すれば、密教の道場探しに諸国行脚していたということかもしれない。(←信じないでください) ●知多四国八十八ヶ所の成立四国八十八所の霊場をめぐる、いわゆるお遍路の起源はまだはっきりわかっていないようだ。ただ庶民が八十八の寺を巡拝する今の形ができたのは、江戸時代中期、五代将軍綱吉の治世にあたる元禄年間(1688〜1704年)の頃らしい。 それから100年あまり後。文化6年(1809年)3月17日、現在の79番霊場妙楽寺住職、亮山上人の夢枕に弘法大師が立ち、「知多は我が宿縁深い地、時機は熟した。ここに霊場を開いて有縁の衆生を済度せよ。二人の道僧をさし遣わす」と告げた。 亮山上人は翌日すぐに四国霊場に出発。何年かをおいて都合3回まわったという。その間に八十八ヶ所の霊場制定に飛び回る。その中で岡戸半蔵・武田安兵衛という2人の協力者が参加した。 当時、知多には真言宗の寺院が30寺程度しかなく、他宗派寺院の協力も求め(説得活動だろうか)、16年かけて八十八ヶ所の霊場を定めることができた。文政7年(1824年)のことである。(知多四国霊場会「知多四国八十八ヶ所霊場」より) 今から200年ほど前になる。 ●現在宗派として多いのは曹洞宗の寺院。35寺ある。以下、真言宗豊山派29寺、西山浄土宗7寺、天台宗5寺、浄土宗4寺、時宗、臨済宗妙心寺派が各2寺、臨済宗および臨済宗天竜寺派、天台宗山門派、尾張高野山宗が各1寺となっている。(数え間違いがあるかもしれないので、あくまで参考) 以前は「知多新四国」と呼ばれ、僕も「新四国」と記憶していたが、20年ほど前、「知多四国」とあらためたようだ。地元ではまだ「新四国」と言うのを聞く。四国八十八所は「本四国」と呼ぶ。 弘法大師の呼び方も「お大師様」ではなく、「弘法様」というのが一般的。弘法大師を祀ったお堂も、四国では「大師堂」だが、知多四国では「弘法堂」となる。(以下「知多四国」では大師堂を「弘法堂」と表記)。 さらに「へんろ道」も「弘法道(こうぼうみち)」と呼ばれているようだが、これが一般的に使われているかは未確認。(「知多四国かうぼう道保存協力会」という団体もあったようだが、今はサイトもないので詳細は不明) ●参拝・納経参拝は本堂よりも弘法堂が中心となる。お寺の側でも、本堂への参拝を期待していない節がある。本堂には納め札入れすら、ほとんど置かれていないからだ。納経もご本尊真言のみ。弘法堂には納め札入れはもちろん、灯明立て、線香立て(正式名は知らない)もだいたいある。当然、四国遍路より参拝時間は短かい。 納経所には一部を除き、人は常駐していない。インターホンを押すと、誰か駆けつけるしくみだ。1番札所で売っている納経帳には、あらかじめ墨書で札所名などが印刷されているので、納経は朱印を3ヵ所押してもらうだけ。中にはセルフサービスや、何ヵ寺かの納経を1ヵ寺でまとめて、という所もある。 納経料も100円。ただし、白紙の納経帖を持って行って墨書してもらうと300円となる。納経時間は午前7時から午後5時だが、3月から9月は午後6時までとなる。この辺は四国の札所も・・・・。 ●回り方と装束土地柄、自動車を使って回る人が多いようだ。中には車を降りると駆け足でお寺に入り、手早く納経を済ませて駆け足で戻る、といった忙しい人もいた。 僕が回った季節(秋)にはジャンボタクシーや観光バスを1日に何台も見た。車の人も含め、こうした人たちは白衣を着ていることが多かった。ただ菅笠や金剛杖は見かけない。乗り降りの邪魔になるからだろう。 もうひとつ多いのは、地元の名古屋鉄道が主催している歩き巡拝。最寄の駅まで鉄道で行き、周辺の札所を歩いて回る企画だ。毎月1回、第3土曜日に開催されている。知多で歩きというと、この企画の参加者を指すようだ。参加した人の話を聞くと、白衣、菅笠、金剛杖という姿はみかけないという。 純然たる歩き、ましてや自転車などはごく少数と思われる。僕が何日か回った限りでは、歩きや自転車巡拝に出会ったことはない。僕自身も白衣で走るのは目立ち過ぎるような気がして、輪袈裟のみ身につけた。 ●お接待一般の人からお接待を受けることは、まずないと思う。そもそも白衣で歩く人がいないので、お接待をしたくてもできないだろう。回ってみると、巡礼へのお接待、という雰囲気はまったく感じられない。 お寺によっては、お茶や水などのお接待がある。その場合、お礼に出すのは納め札ではない。喜捨、つまり現金となる。もちろん喜捨するしないは自由だ。 また春の巡拝シーズンなどには、参拝した人に各札所がうどんやお菓子をお接待するという。こちらもご喜捨をお願いされる。所変われば品も変わるのだ。 ●もう一つの知多八十八ヶ所ややこしいことに、知多には別の八十八ヶ所があったりする。僕も間違えて、こちらのお寺で参拝したことがある。その名も「四国直傳弘法大師 尾張八十八ヶ所霊場」という。幟もほとんど同じデザインだ。「知多四国」の幟は白地に赤の「卍」、墨で「南無大師遍照金剛」と書かれている。「四国直傳弘法」の方は、白地に「卍」が紫、墨で「四国直傳弘法〇番札所」などとなっている。 成立は比較的新しい。大正14年(1925年)、四国八十八ヶ所霊場会の会長(善通寺貫主)から「四国直伝証」をもらって発足したという。(四国直傳弘法より) 宗派の構成は知多四国とよく似ているようだが、面倒なので数えていない。お寺の規模も似たようなものだ。各霊場の地元の人には「ジキデンさん」と呼ばれている。実際、僕も耳にした。しかし一般に名前を聞くことはあまりない。名古屋に住んでいる僕も知らなかったくらいだ。ガイドブックや地図のたぐいも見かけない。ちなみに弘法堂や納経所もなかったりする。こうしたインフラを整備すれば、それなりに名前は売れると思うのだが。
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