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12月8日(高野山)
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●12月8日 高野山名古屋発(8:00) 12月8日、思い立って高野山に出かける。結願して以来、そのうち行こうなんて思っていたらたちまち時間が過ぎ、気がつけばもう師走だ。このまま年を越すのは、あまりにも情けない。行ける時に行こう、ということで数日前に決めた。 朝、7時過ぎに家を出る。8時前に名古屋駅到着。行きは近鉄を使うことにした。時間的には新幹線を使えば速いのだが、それだと出張のようで気が乗らない。お礼参りに効率は関係ない。だったら時間はかかるが、のんびり近鉄で行こう。なんていいながら帰りは新幹線でもいいかな、などと思っていた。 お茶のペットボトルを買って、8時発の近鉄特急、今時はアーバンライナー・プラスというらしい、に乗り込む。列車はほぼ満席だ。さあ、ゆっくり景色でも眺めて、と思ったらいつの間にか眠っていた。目が覚めたのは到着15分前ぐらい。 難波で降り、南海りんかん線に乗り換える。乗り換えの距離は結構ある。10分ほど歩き、ようやく南海電鉄の難波駅に到着。ここでトイレに行ったり、追加のお茶を買ったりしていたら、もう発車時刻が迫ってきた。10時24分発、橋本行き急行に乗る。 難波発(10:24) 僕が生まれたのは南海沿線だ。で、産土の神様はは住吉大社。僕の名前も、住吉大社の前の易者がつけたのだそうだ。生まれた場所を調べたら、金剛という駅の近くらしい。実の所、生まれた土地には、名古屋に来て以来一度も行った事がない。両親もあまり口にしないし、僕も関心がなかった。しかしこの年になって近くを通ることになると、あらためて関心がわく。ほんの小さな頃までしかいなかったし、それも50年以上前だから街の面影も残っているはずもないが、見知らぬ土地に自分の過去がこびりついているというのも、また楽しいものだ。そんな気分で窓の外を眺めていた。 11時13分、橋本着。ここから21分発の各駅停車、極楽橋行きに乗る。極楽橋は高野線の終点。つまり高野山の最寄り駅だ。乗り換えた列車は二両編成で、二人がけと一人がけのシートが通路を挟んで並ぶ。自動車でいえば、モデルチェンジ直後の新車といったところ。ゆったりとしてモダンな感じの列車だ。 終点の極楽橋に着いたのは12時7分。そこからすぐケーブルカーに乗り込む。チケットは、ケーブルカーの料金も含めて、難波から1230円だった。ケーブルカーに乗るのは、これで2回目。1回目は八栗寺に登った時だ。
高野山着(12:17) 5分ほどで高野山駅に着く。駅前広場は。ひっそりとして人影もない。バスだけが10台ほど並んでいる。「奥の院前」と行き先を表示したバスが1台、バス停で停まっている。すぐに乗り込む。実は駅でバス会社の営業所でチケットを買ってから乗るようにアナウンスしていたようなのだが、全然耳に入らなかった。その分、早く乗り込めて座れた。チケットを事前購入しなくても、普通の路線バス同様精算できたので問題は特になかった。
例によって事前の下調べはほとんどしてこなかったので、まずは終点の奥の院前まで行くことにする。20分ほど走ると奥の院前に着いた。満員のバスに乗っていた人はほとんど降りていて、奥の院前まで行ったのは10名ほど。 奥の院で下りると、予想通りレストランが何軒かあった。まずは補給だ。それほど空腹感はなかったが、朝、軽く食べてきただけなので、これから動き回るためのエネルギーは補給しておいた方がいいと思ったからだ。昔から「穴ねらい」の性格なので、バス停に近いきれいな食堂より、多少離れた所を狙ってみた。天麩羅そば600円を頼む。結論から言うと、ちょっと外した。でも食堂のおねえさん方の愛想はよかったから不満はない。 再び奥の院前に戻ると、観光バスが何台も着き、中から白衣の巡礼が続々と降りてくる。四国だろうか、西国だろうか。バスを見ると「四国八十八ヵ所巡礼団」とか書いてある。お遍路たちは手水で手と口を清めると、カメラの前のひな壇に並ぶ。ここは大事な撮影スポットらしい。 この状況なら白衣も目立たない。これまで着用するタイミングを狙っていた白衣と輪袈裟をバッグの中から取り出し、身に着ける。ただこのまま団体と一緒にいると、納経の時大変なことになりそうなので、一足速く奥の院を目指す。しばらくしてわかったのだが、四国についで白衣が自然なのがここ、高野山だった。別に気を使う必要はなかったのだ。
入り口近くは、ロケットの形をした供養塔があったりして、主に企業関係者の供養の碑が多い。明るく開けていて、公園のようだ。数百m歩くと、道は杉木立の中に入っていく。杉の木は樹齢何百年なのだろう、直径2m以上ありそうな巨木が立ち並ぶ。石畳の道の周辺は苔むした墓石や供養塔が立ち並ぶ。ちなみに石畳の石は、大阪や名古屋の市電の敷石を持ってきたという。これは先達さんの説明を横で聞いたもの。
白衣の集団はあちこちにいる。中には供養塔の奥深くまで進出している集団もある。誰か有名な人物の供養塔なのだろう。たまに集団からどっと笑い声もあがる。先達さんも感心させたり笑わせたり、なかなか大変だ。 数分歩くと、大きなお堂がいくつも見えてきた。前を通ってみると「納経所」と書いてある。それほど人はいない。ちょっと迷ったが、団体が来る前に納経することにした。窓口に行く。中年のご婦人、ようするに僕と同年輩の女性が朱印を押してくれる。朱印を押しながら、次に並んでいる人の軸を受け取り、傍らに置いたり、少しでも効率よく作業しようと体も気も使っている。四国霊場の納経所の、のんびりした雰囲気はここにはなく、少しでも効率的に作業をこなそうと身構えている感じだ。納経作業も、それだけハードなのだろう。
納経をすませて、御廟橋を渡る。ここから撮影禁止だ。まず近くのお堂に行く。燈篭堂と書いてある。入ってみるとお勤めの真っ最中。納め札入れがあったので、納め札を入れ、お賽銭を賽銭箱に入れる。しかし燈篭堂って?と首をかしげて外に出ると、先達さんが団体さんに説明していた。 「中は西国三十三ヵ所、四国八十八ヵ所に分かれています。写経を持ってきた人は、それぞれの場所にある台に、写経を広げて置いてください。ここは写経を納めるお堂です。お参りする所ではありません」。ふむふむ、なるほど。 燈篭堂を時計回りに回って裏に出る。そこが聖地の中の聖地、御廟だ。線香の煙が立ちこめ、沢山の人が群がっている。中でもびっくりしたのが、冷たいコンクリートに正座して、延々と般若心経をあげている集団だ。白衣も着ず、普通の服装でそのまま正座している。女性の場合、スカートで正座している人もいる。いずれも中年以上だ。 「これは大阪の人たちやわ。毎年12月になると、こうやってお参りに来はるんよ。えらいわねぇ」。女性の先達さんが、連れてきたメンバーに説明している。ふむふむ。 たしかに大変な苦行だ。チベットのカン・リンポチェ山の回りを五体投地で参拝する巡礼のようだ。しかし、延々と読経されていると、こちらのお経があげられない。しばらく見ていたが休む気配もないので、仕方なくその読経の嵐の中でひっそり読経をする。集中すれば他の読経の声も気にならないのだが、やっぱり途中、素に戻るともみくちゃにされる。それでも頑張って、開経偈から回向文まで、なんとか唱え通す。 そして最後に「おかげさまで無事八十八ヵ所を回ることができました。ありがとうございました」と、心の中でお礼を述べる。これで本当にお遍路は終わった。大窪寺で納経を終えた後以上の寂寞感を感じる。と同時に、一つの区切りが終わったという気になる。 奥の院の参道を2往復(13:30) 帰りは金剛峯寺まで歩くことにする。来た道からちょっとルートをずらして、供養塔の立ち並ぶ道を「一の橋口」ルートで、金剛峯寺、根本大塔へ向かう。もらった案内パンフレットによると、2km、徒歩40分とか。この道を歩く人は少ないようで、ほとんど人影もなかった。周囲の供養塔も、墓地の不気味さもなく、杉木立同様、自然な雰囲気で並んでいた。 ふと見るとベンチのある供養塔がある。「武田信玄、勝頼の墓」とある。なるほど、大河ドラマの影響で訪れる人も多いのだろう。他にも石田光成だとか、どこかの大名家だとかの墓が並ぶ。この人たちは、いくつ墓があるんだろうかと思う。 25分ほど歩くと、バス道路に出た。「一の橋口」だ。思ったより短い。2kmはないと思う。後で地図を見ると、納経所から1.4kmぐらいだ。
しかしさっきから、何か忘れているような気がするが、思い出せない。ぶらぶら歩きながら、適当にお参りする。大黒さまをお参りしている時だった、忘れ物を思い出した!御影をもらっていなかった! 実は八十八ヵ所でも、一つだけ御影を失くした札所がある。26番の金剛頂寺だ。この間、御影帳を購入して整理していて初めて気づいた。これをどうリカバリーしようか、頭を悩ませている。このうえ、高野山の御影を忘れたら面倒に拍車がかかる。思わずタクシーを探したが、そんなもの走っているわけはなく、また同じ道を戻ることにした。 急ぎ足で戻る。あんまり急ぎすぎてふくらはぎが攣りそうになった。ちょっとペースを落とす。急激な運動で酸素不足になったのかもしれない。気分はさすがにめげているが、早足で歩いていると、だんだん気分が良くなってきて、歩くのを楽しむ気分になる。今度は20分ほどで納経所にたどり着く。納経所の人に尋ねてみた。 「御影はありますか」 納経所の人は、気の毒そうに言った。白衣を見て遍路帰りとわかっているからなのだろう。四国では納経すれば御影はタダだ。有料と聞いて驚いたり憤慨したりするお遍路がいるのだろう。しかし郷に入っては郷に従え。見ると、御影はお守りなどと一緒に並んでいた。カラーが500円、モノクロが200円。当然、モノクロを購入する。四国も無料でくれる御影はモノクロだから。 さて、また来た道を戻る。通いなれた通勤経路を歩くような気分で、墓や供養塔の立ち並ぶ石畳の道を歩く。と、途中で、集団のお坊さんが歩いてきた。その数、100名くらいだろうか。なにかのお勤めに向かうところなのだろう。全員黄色い衣に白足袋と下駄だ。中に、黒いつまかわを付けた下駄をはいているお坊さんが一人。通り過ぎた所で、記念に撮影してみた。
いやはや、これで40分のロス。しかし、いい運動にはなった。 やっと空海さんの片鱗にふれた気がする(14:50) 再び一の橋口までもどり、苅萱堂(かるかやどう)の前を通って金剛峯寺に向かう。金剛峯寺の駐車場には何台もの観光バスが停まり、白衣のお遍路さんでにぎわっていた。そういえば、途中の何軒かの旅館でも「歓迎・八十八ヵ所参拝団」といった看板が並んでいた。やはり農閑期のこの時期は、春とはまた違ったお遍路が多いのだろう。
金剛峯寺は、中に入ると歴史的な事物がいろいろあるようだが、今回は社会科の勉強に来たわけではないのでパス。参拝だけして、根本大塔へと向かう。途中、バスの時間を調べる。「千手院前」バス停からは、15時22分。「金剛峯寺」バス停からは、15時9分。どちらかに乗ろう。現在時間は15時ジャスト。どっちにしても時間はない。 急ぎ足で根本大塔へと向かう。ここぞと思ったところで、曲がってみる。するとそこに、落ち着いた雰囲気の多宝塔があった。これが根本大塔、と思ってよくよく眺めてみると、東塔だった。
とすると根本大塔は、と思って進むとあった。でかい!正直、東塔同様、高さ十数mの塔を想像していた。しかし根本大塔は高さ約50m。十何階建てのビルと同じくらいの高さがある。ここまで大きいとは思わなかった。それも空海さんは、同じものを今の東塔の位置に建て、金胎不二の立体曼荼羅を表現するのを意図していたという。たまたま建設資金が尽き、現在の形になったとか。ちなみに現在の根本大塔は明治時代に造られた、鉄筋コンクリート造りだ。
根本大塔が2基並ぶ姿を想像してみた。全身が粟立つような迫力がある。今まで本で読んだり、札所を回ったりしていても手がかりがなかった空海さんの巨大な思考が、形となってこここにうずくまっているような気がすした。ほどほど、適当、日本的、こんな発想は根っからなく、すべては世界的規模で構想されていたのだ。 しばし立ちすくんで根本大塔を眺める。ここに来て初めて、高野山に来た甲斐があったと思った。梶原一騎風に言えば「俺は今、猛烈に感動している!」というやつだ。といっても立ちつくしていたのはわずか1〜2分だろう。しかしそれが随分長い時間に感じた。 我に返って写真を撮る。金堂なども撮影したが、これは記念。今回は根本大塔の写真が一枚あれば満足だ。根本大塔の中は曼荼羅を模して仏像が立ち並んでいるという。300円の拝観料で見学できたが、今回は時間がない。これはまた次の機会にゆずろう。お大師さんにその気があれば、また呼んでいただけるだろう。 我に返って、バス停に向かう。急いで歩いたが、15時9分金剛峯寺発のバスは間に合わなかった。千手院前に向かう。ベンチに座ってペットボトルのお茶を飲み、ようやくほっとする。待つほどにバスが来て、高野山駅へ。 この辺りから寒さが身にしみてきた。歩いている時はいいのだが、バス待ちや電車待ちの間は、かなり寒かった。やはりCW−Xの長袖Tシャツにユニクロフリース、ウインドブレーカーだけでは、冬の高野山ではちょっときつい。やはりちゃんとしたジャケットを着てくればよかった。 15時45分のケーブルカーで極楽橋まで降りて、15時57分発の橋本行き各駅停車に乗る。16時45分、難波行き急行に乗り換え、17時34分に難波着。ここで地下鉄に乗り換え、新大阪から新幹線、というのが当初計画だったが、寒さとめんどくささのため、難波から近鉄で帰ることにした。18時の近鉄アーバンライナー・プラスに乗って名古屋着20時16分。帰り着いたのは21時前だった。 往復10時間で、高野山に居たのは3時間程度。しかし根本大塔前に立った2〜3分の時間だけで、今回は満足できた。宗教者としての弘法大師というのはまだ皆目捉えきれないが、思想家、構想者としての空海という巨人の、ほんのかけらにでも触れられたのが今回の高野山行きの成果だった。 そしてこれで僕のお遍路は完結した。
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